【天保の改革~立川流の出現】
隆盛を築いた祭車の発展も、天保の大飢饉により天保の改革(1841)が示され、贅沢や華美な装飾が禁じられました。
(後部にのみ彫刻が施された弘化3年(1846)新造の津島市南部祭車旧状)

(一部の錺金具のみ施された、嘉永2年(1849)新造の鈴鹿市神戸北萱町祭車旧状)
時代が流れ、彫刻禁止が解かれるようになると、西舩馬町祭車に写実的な彫刻が施されました。


(文久2年(1862)に立川和四郎富重により彫刻が施された、西舩馬町祭車)
現代と同様の彫刻が入るようになったのは、この頃からです。

(明治20年、野々垣清三朗彫刻の田町祭車三角)
さらに発展を遂げるかと思いきや、元々が荒い石取祭です。

御所車に変えても喧嘩や半裸などが続き、明治8年三重県令(県知事)岩村定高により石取祭の禁止が命じられました。
反省した桑名の者達は、無法地帯だった石取祭に規約を設け、明治14年 きちんとした祭礼へと向かいました。

(明治14年制定 祭典規約複写)
祭礼が復活した際には、変革期として大改造を行った町や祭車を新造する町が増えました。

(明治15年、平野甚四郎や小林彌七により三輪へ改造された旧東鍋屋町(現いなべ市員弁町暮明)祭車)したがって古材や古車が余り始め、郊外各地へ売却され、現在の類似祭礼分布の礎となったわけです。

(明治初期に桑名から譲られた、桑名市多度町香取町祭車)

(桑名北本町より譲られた、川越町豊田一色祭車)

(桑名南福江町より譲られた、東員町六把野新田祭車)


(桑名萱町より譲られた、旧鈴鹿神戸南萱町(現鈴鹿市加佐登祭車))
そして、ご存じの通り第二次世界対戦により昭和20年7月16日の空襲により桑名の街は焼け野原になり、神社はおろか祭車も大半が焼けてしまいました。

(戦災焼失した殿町祭車)
45台あった祭車も残ったのは、わずか10台だけでした。
東舩馬町北本町(現羽衣祭車)、川口町(現花街川口町祭車)、西舩馬町、江戸町、宮町(現宮北祭車)、田町、太一丸(現諸戸財団祭車)、東太一丸(現石取会館祭車)、八坂町(昭和47年離脱 現鈴鹿神戸北十日市町祭車)、西馬道の10台で、西榮町も助かりましたが当時は祭典区域に入っていなかったので数に入っていません。

(太一丸(諸戸財団)祭車)
戦後は仮車を作ったり、大八車に鉦と太鼓を付けて曳いた他に、前述の古車を譲った郊外各地より祭車を借り受けて祭礼に参加しました。

(福江町が現祭車を造るまで仮車として使用していた祭車(現長島町大島祭車))
借車でも当たり外れがあったようで、良い祭車を借りようと早く交渉に出掛けたりしたそうです。
借りた祭車に傷を付けてはならないので、祭中は蚊帳を張って青年会が番をしたとも聞きます。

(長年借車が続き、昭和62年に再建した片町祭車)
自宅再建資金の他に祭車再建資金を貯め、各町の祭車が新造されました。
一番最初は、昭和23年10月に完成した上本町祭車です。

最初は彫刻もなく飾りも少ないまま曳かれ、彫刻、塗り、錺金具、幕と徐々に追加して、現在の美しい姿になりました。

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