2/24 桑名の歴史を知ると題した講座が、桑名市新地のきいろいおうちで行われました。
皆さんは桑名市新地という町をご存じですか?
なかなか馴染みの無い地区だと思います。
お隣の福江町は東海道にあり、石取祭の口向き並びでは末番祭車が並ぶ町として知られている事でしょう。
今回は、福江町と新地界隈の歴史を知る講座だったので、その内容の一部を後日撮影した写真を元に私見を交えて紹介します。
福江町は北を西矢田町、南は大福に接する南北に伸びる町です。
(西矢田町側より南を望む)
古くは北福江町と南福江町に分かれていました。
南端は切所と呼ばれ、石取祭車の末番が並ぶところです。
江戸時代この場所には木戸があり、参勤交代などで東へ上る時には、ここで身を整えて桑名の町に入ったと言われます。
北福江町は江場村、南福江町は大福村の地籍で、その一字を取って江福町と称しました。
(南福江町より譲られた、東員町六把野新田祭車)
地区の中ほどには神戸岡(ごうどのおか)神社があります。
この神戸岡神社は、神社庁の登記にも出てこない由緒不明な神社でした。
近年 大河内さんらの研究によると、昔福江町にあった修験宗大膳院という寺の境内にあったものではないかと推測されます。
明治の神仏分離令により大膳院は廃寺となり、福江町の皆さんに崇敬を集めていた大膳院境内の社のみ残し、“神戸岡神社”として神式化して新たに誕生させたもののようです。
(修験宗時代の紋を引き継いでいると思われる神紋)
その頃は街道の東側にありましたが、戦争が激化してきたため、昭和19年に立坂神社に合祀されました。
現在の地には、昭和35年に分祀されて戻っています。
(旧地に建っていたと思われる石碑。現在は神戸岡神社に建っている)
(神戸岡神社例大祭の様子)
次に新地は福江町の西側にある地区で、宝永7年足軽屋敷として開発され、文政6年の城主交替の際には士族家庭の居住地として整備されました。
(新地東部。左に行くと福江町)
地区南方と東方には町屋御用水があり、町屋川(員弁川)より桑名の町に水を供する水路でした。
通り井跡は、現在も江戸町~川口町に残ります。
新地に通じる通路は元来二ヶ所で、福江町より通じる新福橋と大福より通じる天池橋のみでした。
(“新”地と“福”江町にかかる新福橋)
(福江町から新福橋に通じる細道)
西側はJRと近鉄の線路に接していて、南側は前述の御用水があり、他方へ通り抜ける道は無く、商店も無いので馴染みが薄いのは私だけではないはずです。
元々は江場村のこの地は、神館(こうだて)神社の氏地でしたが、後に士族屋敷となり明治期の小社合祀の際、士族の多く住むこの地区の稲荷神社は主君を祀る鎭國守國神社の境内社 伊奈利神社に合祀され、地区から離れた神社の氏子となりました。
元々は江場村のこの地は、神館(こうだて)神社の氏地でしたが、後に士族屋敷となり明治期の小社合祀の際、士族の多く住むこの地区の稲荷神社は主君を祀る鎭國守國神社の境内社 伊奈利神社に合祀され、地区から離れた神社の氏子となりました。
(国替えの際、陸奥国白河より移遷された稲荷神社があった辺り)
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