①、②の続きです。
【桑名の彫刻師と作品】
・野々垣一門(野々垣太兵衛、清兵衛、兵助)
(四日市市富田茂福町祭車 左前隅腕彫刻・唐獅子)
・作者不詳
(津島市中部祭車右亀腹彫刻・唐獅子)
・小川義休(久七)
(四日市市天カ須賀第四組祭車 右持送彫刻・唐獅子)
・初代小川光久(久太郎)
(・桑名市長島町長島下町祭車 右持送彫刻・波に龍)
・後藤吉次郎
(四日市市富田北村町祭車 左持送彫刻・松に孔雀)
・初代小川光民(民次郎)
(桑名第十組西馬道祭車 右三角彫刻・松に夫婦馬)
・二代目小川光民(進一)
(津島市北部祭車 右額彫刻・日本武尊野火の難)
(鈴鹿市神戸北十日市町祭車 左三角彫刻・神武東征)
・二代目小川光久(昇)
(桑名第十組新矢田一丁目祭車 左持送彫刻・雷電神)
・森晴鶴(佐太郎)
(桑名第八組堤原祭車 太鼓掛彫刻・松に千匹猿)
・他にも千葉清光(塗師)、平田賢道(僧侶)なども彫刻を彫った。
【明治中期~大正時代の彫刻】
・明治20年代に入ると滋賀県湖東町(現東近江市)の三代木澤忠兵衛良直などにも依頼する町が出てきた。
・明治33年の木澤忠兵衛良直の雑記には、順番表と共に主だった彫刻師の名前が記されており、今日の基礎資料となっている。
この事により、名古屋の野々垣清三郎、早瀬長兵衛などが桑名でも腕を奮っていた事がわかる。
・木澤家には、沢山の彫刻下絵が残っており、桑名のみならず江州日野祭曳山彫刻の下絵などもある。
その大半は、桑名市博物館に寄託されている。
・名古屋の彫刻師、瀬川一門の作品は桑名での現存例が発見されていなかったが、三代瀬川鍋三郎のさくが安永晴雲寺にある事がわかった。
また、舟町祭車(戦災焼失)は二代瀬川治助重光が彫っている。
(明治27年1月に彫られた、浄土真宗大谷派 清浄山晴雲寺本堂木鼻彫刻)
【華麗な祭車としての発達】
(明治30年新調 諸戸会祭車 左三角彫刻・白虎)
(同上 太鼓掛彫刻・雷獣)
・高村光雲工房で諸戸会祭車(太一丸使用)彫刻は彫られた。
太鼓掛を彫った石川信光は、江戸町祭車でも彫っているが、江戸町祭車は銀次郎信光ではなく三五郎信光が彫ったのか?
石川信光は、柴又帝釈天などを彫っている。
(桑名第一組江戸町祭車 太鼓掛彫刻・雲龍)
(同上 左三角彫刻・蘭陵王)
(高村光雲が彫刻した桑名第一組羽衣祭車)
・木澤忠兵衛良直と肩を並べて活躍した、二代目野々垣清三郎の作品は桑名では、田町祭車にしか現存しない。
(明治43年彫刻 桑名第四組田町祭車 右三角彫刻・榊に神鶏)
・江州醒ヶ井の森丹渓は戦災焼失した、先代上本町祭車彫刻を彫った。
その下絵が残っており、二代目森丹渓が同様に現上本町祭車彫刻を昭和33年に彫った。
(桑名第一組上本町祭車 右三角彫刻・雷電神)
・二代目森丹渓の最後の作品として、昭和44年に彫った傳馬町祭車彫刻がある。
助として、弟子の愛知県江南市の駒田正則が加わった。
(桑名第六組傳馬町祭車 右三角彫刻・岩戸神楽)
・堤原、今片町は焼け跡から錺金具を掘り返し、再生して使用している。
上本町は錺金具を疎開させたので、現祭車に取り付けられられている。
(昭和5年 石原勝秀作 桑名第一組上本町祭車 右太鼓掛錺金具・貝尽くし)
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